魚の棚広報誌 うおんたな21号 

魚の棚のお店の看板娘さんをご紹介します

藤原 摩耶さん
森谷商店のアルバイト20歳。現在は文系経済学部に通う大学3年生。
将来の夢は大学で勉強したことを活かして流通か小売店に就職し、経営者になることだそうです。
趣味はカラオケで、剣道3段の凄腕の持ち主。

森谷商店
明石市本町1丁目6-14
TEL 078-912-4129
<営業時間>
8:00~18:30
定休日:毎週木曜日

創業130年余り、仕入れは必ず店主自らが足を運び、厳選した牛肉だけを「森谷の肉」として皆様にご提供させていただいております。自慢の森谷の肉をはじめ、豚肉、鶏肉、各種揚げ物などを販売しております。

旬の食材を召し上がれ -魚の棚人気店のおすすめ料理-

魚の棚商店街東側、南の通路にある「お好み焼専科水仙」にお酒のおつまみに最適なお料理をご紹介いただきました。ぜひ、ご家庭でお試し下さい。食材はすべて魚の棚の商店街でお買い求め頂けます。

明石だこのガーリック焼 バジルソース

<材料>
明石だこ・・・足2本
にんにく・・・1片
オリーブオイル・・・大さじ2
黒コショウ・・・適量
ガーリックパウダー・・・適量
バター・・・10g
アルミホイル

●事前にやっておくこと●
① タコは塩で表面のぬめりをとります。
[ぬめりのとり方]
a.あら塩が入ったビニール袋にタコを入れてくくり、手早くもむ。
b.タコを取り出し、水洗いするときは、吸盤をしごくようにしてぬめりをとっていく。
②アルミホイルを折り曲げてトレイ型にしておく①たこは厚さ5ミリ~1センチ程度のぶつ切りにする。

●手順●
①にんにくはスライスし、タコはぶつ切りにする。
②温めたフライパンにオリーブオイル、にんにくスライスを入れ、香りがたったらタコを入れる。
③黒コショウ、ガーリックパウダー、バターを入れて炒める。
【ポイント】炒める目安はタコの色が変わるまで火を通す程度(硬くなるので炒めすぎないように)
④火を止め、用意しておいたアルミホイルのトレイに移し、とろけるチーズを乗せる。
⑤フライパンの汚れを拭き取り、その上に?をアルミホイルごと置いて火にかけ、ふたをする。
⑥チーズがとけたらフライパンから取り出し、市販のバジルソースをかけて出来上がり♪
※残ったオリーブオイルソースは、フォカッチャやバゲットにつけて食べても◎。
※茹でた野菜(じゃがいもやブロッコリーなど)にかけてもおいしいです。

★STUDY★
生だこは丸1匹購入することが多いと思いますが、量が多いので、ぬめりをしっかりとったら足を1本ずつサランラップで巻いて密封し、冷凍保存しておけば使いたいときに使いたい分だけ調理できて便利です。

今回レシピを教えて頂いたお店は・・・

お好み焼専科 水仙

明石市本町1丁目5-5
TEL078-913-1850

<営業時間>
12:00~15:00・17:30~21:30
<定休日>
日・祝・水曜のみ昼(夜は営業)

お好み焼専科水仙さんをご紹介します。
明石・魚の棚でお好焼専門にこだわって営業しています。
5時間以上煮込んだダシを使ったお好焼、ソースなしでも食べられるしっかりした味付けを生地自体にしています。ふっくらさくっとした食感にこだわり、大事に作っています。お好焼をはじめ、そば焼、そばめし、ネギ焼、鉄板焼など多数のメニューで皆様のご来店をお待ち申し上げております。

<前列右から>
菅亀商店(現在、卸売市場で鮮魚仲卸業)菅野照子  昭和11年生まれ 76歳
金引商店(現在、魚の棚で青果店)   瀧野カヅエ 昭和7年生まれ  81歳
松庄商店(現在、魚の棚で鮮魚小売店) 松谷孝子  昭和8年生まれ  80歳
<後方>
コーディネート役 明石市都市整備部  嶋田部長

今回は、これまでの魚の棚を支えてきた女将さんたち3人にお集まりいただき、昭和53年当時(明石卸売市場が開設される前)女将さん達から見た魚の棚を語って頂きました。
その当時、魚の棚に嫁がれてきた方に、「知って来たか、知らずで来たか、地獄八丁の魚の棚」と影で囁かれていたことも…

 瀧野さんのお店は、魚の棚で豆腐店として営まれ、住居も同じでした。しかし平成7年震災の影響で機械が壊れた事もあって廃業、現在は青果店「金引青果」として息子さんが切り盛りされています。
 菅野さんのお店は、昭和53年に明石卸売市場ができるまでは、魚の棚で仲卸しをされ、現在は明石卸売市場で息子さんが仲卸をされています。
 松谷さんのお店は、魚の棚の大通りに面し鮮魚店を営まれ、朝は卸し、昼は小売りの二枚看板で多忙な日々、住居もお店と同じでした。現在は、息子さんが鮮魚の小売業を継がれています。
  昭和53年頃までは、どこのお店も商売と日常生活が一
緒で、店舗の2階で生活をしていたのがあたりまえの時代でした。菅亀さんは、結婚当時(昭和54年)に相生町に家を建ててもらったが、荷物置き場になり、結局、店舗の2階で親と一緒に寝泊りしていたと言うぐらい、商売と生活が重なり合っていた時代だったそうです。

その当時の生活ぶりを皆さんにお伺いしました。

瀧野さん
 昭和37年頃までは、朝は0時半起床、ボイラーに石炭をくべ、豆を臼で挽き、釜で炊いて豆腐を仕込んでいく仕事をしていました。昭和37年になると機械を導入し、起床が4時となりましたが、それは厳しい毎日でした。お店には通いの人が5時に来て朝ごはんを食べていましたので、その用意をこなし、昼の賄い、店の手伝い、夜の支度(ごはん、風呂等)に追われる一日でした。この時代、ご飯を炊くのも薪なので風が吹くと火が消えご飯を炊くのに苦労した思い出があります。また風呂も薪で焚くといった時代です。みんなが入った最後に入る時にはお湯もないといった毎日でした。働く人の中には、集団就職で来た7人の住み込みの方もおり、総勢20人の大所帯の賄いを仕切っていました。今から思うとすごい生活を過ごしてきたと思います。よそより早く店を開けて稼ぐ。そのために睡眠時間は3時間、アスファルト舗装されるまでは、通りは石畳で高下駄(長靴のない時代)では音がするため裸足で店を開けた。これは、他の店に店を開けたことを知られないため。親から仕事をすることをしつけられていたため、これが当たり前と思った時代でした。ひたすら財を築くために働きました。しかし仕事は苦になりませんでした。
 そして昭和53年に卸売市場ができ、魚の棚では、仲卸をしなくなった時から、生活が大きく変わり、楽になった気がします。しかし、あの頃の活気は今はないような気がします。
菅野さん
 3時ころから明石港で始まるセリの準備のために、毎日、朝2時半に起床していました。お店には住込み(九州から)の人が2人いて、部屋は別だがお店で一緒に生活をしていました。昭和40年半ば頃は、地方から集団就職で住込みで、働きにこられる方が多かった。数年働いて、結婚を機に郷里へ帰っていくといった時代でした。今でも昔、住み込みで働いていた方から便りをいただく事もあります。お店が忙しく、隣近所の交流さえない時代でした。
 自分たちが苦労している分、子ども達は、大学に行かせることが多く。その結果、お店を継がないところも出てきているようです。
松谷さん
 菅野さんと同じで3時ころから明石港で始まるセリの準備のために、主人は毎日、朝2時半に起床し、私は少し遅れて起床していました。お店には住み込みの方が離れで過ごし、家族は店の2階で寝起きしていました。
 お店は、瀧野さんの向かいでしたが、その当時、ほとんど話しをする余裕がありませんでした。
 当時、店舗とは別に住宅を持つのが夢で、その実現に向け一生懸命働きました。約40年ほど前に主人が夢をかなえてくれて、家を建てる事ができました。昔は店と住まいを別にするのが夢だったのです。当時は何をしても走りで(目新しいやり方:東京へ魚を荷物として送る)で、各店舗が競争していました。
 そして、子どもが小学校に行く頃から、少しずつ近所付き合い(会話をする事)が始まり、息子が独立してから時間の余裕もでき、本格的な近所同士の付き合いが出来るようになりました。最近では食事や映画を見に行くほどになりました。
 後継ぎになっている息子は大学を出しました。昔は金を生む時代、今はその恩恵を受けているが商売は難しい時代となっているように思います。
 この時代を生きた女将さんたちは、最後に口をそろえておっしゃったのが、あの時代は良い思い出、あの厳しさがあったからこそ、今がある。今では、仕事は息子たちに任せ、楽しく過ごされているそうです。

大学を出てサラリーマン、そして魚屋に!!

有限会社魚常 店主 稲垣年彦(60歳)

私は、商売を継ぐことは考えていなかった!

 実家は魚屋で、親の仕事を見て育ったが、魚屋にまったく興味が無かった。自分が朝早く起きて仕事をするなんて考えられなかった。そんな中学生時代の技術家庭教科のなかで製図のトレースをする時間が一番好きだった。高校に入って小遣いほしさに、バイトとして店を手伝ことがあったが、店頭販売の手伝いで魚の腹を開けるとか、頭を落とすとかまったく魚を触ることも無かった。両親は明石の店の上で寝泊りし、僕と姉は、舞子の家で暮らしていた。兄弟は姉が2人、男は私一人だったので普通だと私が家業の魚屋を継ぐのはあたりまえだったが、商売にまったく興味が無く、自分の一番好きな事をしようと大学に入った。親に相談せず、勝手に大学を決め、就職先も自分で決めた。

大学に入学そして就職…

 大学は関西大学の工学部を専攻し卒業をした。そして、大手メーカーのトラックのシャーシー部分を製造している金型の特殊メーカーに入社した。サラリーマン時代は横浜の寮に入り、勤め先は藤沢にあった。希望は、学んできた設計部門に行きたかったが、残念ながら希望はかなわず、現場の指示母体である生産管理化に回された。その部門というのは、毎日、各課を集めて会議をする部署で、次のプロジェクトについて生産体制から人員配置まですべてを決める事を行っていた。
 入社してすぐ、4ヶ月の研修を経て、200人のスタッフをまとめ上げる会議の進行を任された。初めは先輩がサポートしてくれたが、一ヶ月も経つと、自分ひとりがまとめ上げていかなくてはならなかった。初めはプレッシャーで嫌で怖かった事を覚えています。自分が1つでも指示ミスをすれば、200人がバラバラになってしまう。この時代は夜勤があり、3交代制24時間会社が動いていた。ある日、24時間動いているラインの部品をきらすミスをした。部品が無いことでラインが止まり、会社に数千万円の損失を出してしまう。夜中、乗用車で横浜から埼玉まで部品を取りに行ったことがある。 しかしこの時期、一番楽しかったのは親元を離れ、なんでも自由にできたこと。

ある日、親父が迎えにきた

 サラリーマンになって3年目、ちょうど仕事もおもしろくなってきたころ、夏の日曜日の晩8時ごろ。いきなり寮に親父が面会にやってきた。何のコンタクトも無くいきなりきたのだ。上司に時下談判してでも連れて帰る、上司のところに連れて行けと言うのだ。今は日曜日の午後8時、連れて行くこともできず、明日に連れて行くとなだめ、その日は寮に泊まらせ、親父の考えを聞いた。そこまで言うんやったら、と帰ることを決意した。

魚屋を手伝うため明石に戻るが苦労の連続

 その当時、親父は明石卸売市場が出来ることに反抗し、魚の棚を離れず商売を続けていた。しかし、結果的に市場がスタートすると、仕入れ客は市場の方へ買出しに行ってしまい、半年間がんばったが、54年の暮れに卸の仕事は閉めることになった。味噌漬けの小売は継続していたが、その年が明けてまもなく、親父は亡くなった。
 東京から帰ってきて一年は経っていたが、仕事は気が入らず、魚のさばき方もわからない状態だった。親父が倒れたと同時にお袋が仕事をしなくなった。そんな折、先輩が「鰆のおろし方教えたるから、店に来い」と言われて、行くことになった。教えてもらうというよりは、スパルタ教育そのものだった。ほぼ毎日通った。2ヶ月ぐらい経つと何とか、凍った鰆をバラバラにすることが出来るようになった。卸売市場が忙しいことから、仲卸しをしていた義理のお兄さんに手伝いにこいやと言われ、行くことになった。もちろん、実家の魚の棚のお店も掛けもちで。このころから朝は卸売り、昼間は魚の棚で小売をする生活が始まった。市場では、ねこ引き(物を運ぶ)の仕事をした。朝4時半に競りが始まるので、4時には市場に行き、終わると魚の棚で午後7時頃まで小売の仕事をした。このねこ引きと言う仕事を3年間続けた。競り落とされた商品をお客さんの車に積む仕事。周りの人は、「大学まで出てそんな仕事して悲しないんか」という人もいた。しかし、今はこれしかできひん、これしかないやん、と思った。でも、このねこ引きも頭を使わなかったら出来ない仕事に気づいた。お客さんの車にいかにしてたくさん積むかだ。そうする工夫を重ねていると、お客さんから積んでくれとリクエストを貰うこともあった。
 同じ事をやるにしても、人に負けたくない、同じねこ引きでもきっちりとやりたいと思い、それを糧に仕事をやっいていた。3年も経つと自分の下にも新人ができ、いつまでもねこ引きというわけにもいかず、次は水洗い(魚をさばく)をやれと言われた。うまく出来るわけわけもなく、無理やりやらされた。ところが巡り合わせというか、淡路から来ていたカンカン屋(行商人)さんが、めんどくさがりやで(笑)、三枚おろしで骨にまだ身が残ろうがかまへんというのだ。仕事でありながら、この人の商品でさばく練習を毎日続け5年間やった。そんなこんなで、市場に行く時間も朝3時に行くようになった。
 ねこ引き3年、水洗い5年、8年も経つと次は魚買ってみるか(競り落としてみるか)と言う話になった。魚を売り残すことが出来ないプレッシャーもあったが、自分で値段をつけて買う面白さ、魚に値段をつけて売る面白さが勝ち毎日が楽しかった。

商店街にかかわり始めた

 明石に帰ってきて商売をはじめて10年経つか経たないかの昭和62年、今まで商店街の人とは繋がりがまったくなかった。そんな折、商店街の若手を集め、青年会を作るという話が持ち上がり参加することになった。現在のアーケード工事について勉強会をしたり、完成のイベントを企画し、実施もしました。その頃から、商売一筋だったが商店街の事を考えるようになっていった。あなご屋の林さんが会長だった頃、健康福祉センターで料理教室もやった。その時は、浪花さんから食器を借りて皆で工夫して実施した。年末の飾りつけの大漁旗もやり始めた。いろんなイベントを実施しました。その中でも印象的だったのが「穴子の巻き寿司イベント」。試しに5メートルの巻き寿司に挑戦しようとしたら、誰も手伝ってくれないと思ったら、普段、話したことも無いお店の人が来てくれて、手伝ってくれた。「魚の棚ええやん!皆やる気満々やん。」と嬉しく思った。
 今では商店街も世代交代が進み、私も古株の一員となりました。今の若い人たちもお客さんに喜んでお買い物をしていただける商店街づくりを目指し日々努力しています。
ぜひ、そんな目線でお買い物を楽しんで頂ければと思います。

明石の旬と食を楽しもう!

鯛(タイ)

紅葉鯛の名を持つ最高の味。刺身、塩焼き、鯛ちりで。瀬戸内の鯛は1年で最も脂ののる今が最高潮のおいしさ。目が澄んでいて色鮮やかなものを選ぶと良い。鯛の皮にはビタミンB2が多く、目や皮膚などを健やかに保つ働きがある。

太刀魚(タチウオ)

脂ののりきった旬の味。刺身で味わうなら今!明石の浜では、立ち泳ぎで餌を捕る姿から立魚という書き方が一般的。11月までの旬の時期、刺身でも大トロのように醤油をはじくほど脂がのっていて旨い。

栗(クリ)

栗ごはん、煮物、渋皮煮に。短い旬を楽しんで!収穫は10月の中旬ごろまで。皮につやがあり、丸くて重量感のあるものを選ぶと良い。糖質と食物繊維、ビタミンCが豊富で、疲れやすい人や冷え性に最適。

松茸(マツタケ)

焼き松茸に炊き込みごはん。豊かな香りを食卓に添えて。キノコの中でも香りの王様はやっぱり松茸。柄が太く弾力があり、ヒダが白く湿り気のあるものが上質。国産を少量か、輸入品をたっぷり、あなたはどっち?

● 編 集 後 記 ●

取材に応じていただいた皆さんから今回も貴重なお話を伺いました。熱心に話してくださった中で、魚の棚への感謝、そして「商売は受け継がれて行くもの」という言葉が印象的でした。私も「先人が築き上げた土台の上で商売をさせていただいている」ことを再認識させていただきました。限られた紙面で全てをお伝えできないことは残念ですが、お客様にも魚の棚の魅力を少しでも感じていただけましたら幸いに思います。

魚の棚商店街 ミニコミ紙「うおんたな」編集委員長 松谷 佳邦