魚の棚広報誌 うおんたな23号
魚の棚のお店の看板娘さんをご紹介します
畦崎 文代 さん
「海路」の水曜日以外不定で勤務。趣味は書道や魚絵師等趣味を越えて現実的に活動を考えています。
座右の銘は「厳しさは優しさ」優しさが当たり前の傾向の現代、自分自身を含め、厳しくあること。
厳しく接する事が優しさと思っています。
商店街はただ買うだけではなく、どう食べたら良いか等会話しながら買える楽しい場所と思っていただけたらと思います。
海路
明石市本町1丁目1-22
TEL078-918-0011
<営業時間>
8:00~17:30
定休日:1月1日~4日
大きなマグロの看板のとおり当店自慢は天然まぐろ。その時々最も良い産地から厳選したまぐろを仕入れ販売しています。また、大人気のたこの天ぷらや、あなごの天ぷらなどの天ぷら類も種類豊富にございます。夕食のおかずに、ちょっとしたお土産にもどうぞ。
旬の食材を召し上がれ -魚の棚人気店のおすすめ料理-
お造り
●手順●
①エビを氷水に1時間程度つけておきます。
【ワンポイント】
氷水に1時間つけることによってエビの皮がむけやすくなります!
②鮮度を落とさないため、氷水の中で頭を回しながら引っ張り、頭と胴体に分けます。盛り付けて完成。
※頭は、味噌汁の具や各家庭のとった出汁に入れて沸騰させ、灰汁をとって深?い味わいのある出汁にして使うのもいいでしょう。
お造りの醤油づけ
●手順●
①お造りで食べれる状態から、キッチンペーパー等で拭いて水気をとります。
②づけの醤油を作ります。
酒3・みりん1・濃い口醤油1を鍋にかけ、酒をとばして(フランべ)から冷まします。(多めに作ってください)
③もったいないけど、作ったづけ醤油でエビを洗い、それから残りのづけ醤油に2時間冷蔵庫でつけ置きしてからエビを取り出します。
【ワンポイント】
エビは2時間で取り出しましょう。放置しておくと味がしみ込みすぎて辛くなります。(取り出したエビはタッパーに入れて、冷蔵庫保管で5日ぐらいは持ちます)
※エビを洗った醤油は、もったいないけど捨ててください。醤油づけしたエビは、そのままでも食べることができますが、残ったづけ醤油にわさびを溶かしてえびにかけて食べるのもいいかも♪
唐揚げ
●手順●
①180度ぐらいの油でカラッと揚げます。塩を振りかけ食べるのが、一番おいしいでしょう。
※作り残しができたら、冷蔵庫に保管して(2日ぐらいまで)、天つゆ(出汁4・薄口しょうゆ1・みりん1)に大根おろしをたっぷり入れて唐揚げにからめて食べると、食感と風味が変わってまた違った味わいを楽しめます。
今回レシピを教えて頂いたお店は・・・
神 和 (しんわ)
明石市本町1-1-20
電話番号 078-914-7155
営業時間 12:00~21:30(変更あり)
定休日 月曜日
明石で獲れた旬の魚介、また季節の新鮮な鮮魚を使い、美味しいものを一番美味しいかたちでお召し上がり頂いております。
お越しいただいたお客様のご予算に合わせて、旬の新鮮なネタで握らせていただきますので、お気軽にご来店時にお申し出ください。またご家族連れ様も大歓迎ですのでお気軽にお越しください。
お昼は定食をご用意しております。赤だしとのセットでリーズナブルになっておりますので、皆様のご来店お待ちしております。
終戦の年、昭和二十年(1945年)にあった明石の空爆。
当時十八歳だった石井富貴子さんと当時十六歳だった川崎孝子さんに、
戦争の悲しい体験を未来に伝えていくために、また戦前の生活も含め貴重なお話をお伺いしました。
石井さんは浪花のおばあちゃん、川崎さんは焼き鯛魚秀のおばさんで、
現在は現役を引退され楽しく老後を過ごされています。
戦前の生活と魚の棚の様子
当時は魚の棚の通りは石畳で情緒がありました。道幅は現在よりもっと狭かったそうです。左右の店舗を見ながら人が通るので賑やかで活気がありました。魚を目当てに三木や社から多くの人が買い物に来ていたそうです。
石井さんは、幼少期の頃、播陽幼稚園に通っていたそうです。その当時から昭和50年頃までは、播陽幼稚園は明石市内から子どもたちが通っていました。また土曜幼稚園というものがあって、小学校に入ったときに困らないよう土曜日だけの幼稚園もあったそうです。小学校では二年生までは男女共学、三年生からは男女分かれて勉強していたそうです。
魚の棚は軟水のいい水が井戸から出て、各家庭に必ず井戸がありました。
魚の棚の南、現在の日活映画館は三白亭(みはくてい)という、演芸場でした。有名なのがしゃべくり漫才の元祖である「エンタツアチャコ」が初舞台をふんだのがこの三白亭です。三白亭の奥にあったお店の裏から駆け上がるとタダで見ることが出来ました。仕切があってなかった様な作りで、これも面白い時代の一面でした。
夏には今のような暑さを感じませんでした。道路は土がむき出しでアスファルトのような熱の照り返しがありませんでした。夕方になると打ち水をして、軒先では夜遅くまでロウソクの光の下で男の人が将棋を指していました。その将棋を見て、私たち子どもも将棋を覚えたものです。そして、子どもは花火をして楽しんだことを思い出します。
魚の棚は電気が通っていました。夕方5時になると篭屋の電気がつき、それが合図で「もう帰らなあかんよ」とよく言われたものです。電気が通っていてもどこかのお家がアイロンを使ったら、電圧の問題で一角の家全てが停電になってしまうほど、不安定な電気事情でした。今は本当に結構な時代だと思いますよ。
魚の棚では夏休みになると、朝のラジオ体操は出来ないので夕方に行われていました。この時代は、どこの家庭も子どもが六・七人居るのがあたりまえでした。子どもは、今のように手を掛けることもなく育ってきた時代でした。上の子は下の子を見るのが当たり前でした。それでも子どもはすくすくと育っていました。あるお家では寝冷えしないように布団みたいなものをお腹に巻いて寝かせていました。ある日、朝になると一人おらへんな?どこいったんやろと探すと、寝てるあいだにゴロゴロと庭に落ちて、床下に転がりそのまま寝ていた事もあったそうです。しかしこの時代はそういう子育てがあたりまえでした。それでも、みんな立派な大人になって社会で活躍しています。子どもの事をずっと見ている余裕が大人にはありませんでした。喧嘩しようが、先生にしかられようが、今の時代のように問題になる時代じゃありませんでした。この時代は、先生に叱られて当たり前、叱られても親に言ったら反対に怒られるのが分かっているので何も言いませんでした。宿題を忘れたら水の入ったバケツを持たされて廊下に立たされていた。それでも親は何も言わない。本人も自分が悪いから何も言わない。そういう時代でした。今の時代はえらい世の中やなと感じますな。と語って頂きました。
川崎さんは、学校から帰ってきたら玄関にぽ?ぃと鞄を放り投げ、すぐに外に遊びに行っていたそうです。鞄を置くと同時に一番下の妹を背中に背負って、それでも遊びに出かけていました。そんなおもしろい活気のあった時代でした。
明石の空爆
明石のまちが空爆の標的に
そして明石公園がB29の爆撃を受け死者多数
明石は終戦の年、昭和二十年(1945年)一月十九日に初めての空爆がありました。これは兵庫県下で最初の本格的な空爆でした。当時、明石の西部にあった川崎航空機明石工場が標的になったものです。この空爆は三十分程でしたが、損害は甚大なものでした。
そして六月には三度の空爆があり、その中でも六月九日の空爆では、明石公園で魚の棚の商売人を含め多くの方々が亡くなる空爆でした。その爆撃は、現在の明石市民病院の西側にあった防毒マスクを製造している軍事工場が標的となったものです。しかし、その流れ玉が明石公園に落ちたのです。魚の棚の人達は、空襲警報が鳴ったら明石公園に避難するように指示を受けていました。その日も空襲警報が鳴り、魚の棚の人達の多くは明石公園に逃げ込みました。しかし、残念な事にその人たちが犠牲者となったのです。大阪から疎開していたお店のお孫さんも公園に逃げて命を落とすこととなってしまったそうです。その時、魚の棚は爆弾の地響きと爆風がすさまじかったですが何ともありませんでした。その後、明石公園に行ったら目を覆うようなすさまじい惨状でした。遺体が木に引っかかったり、頭が飛んだ遺体、遺体は爆弾の衝撃でバラバラになっていました…魚の棚の人が亡くなっていたところは、公園の一個所にかたまっていたそうです。きっと肩を寄せ合っていたのではないでしょうか。今でもその現場となった公園の競輪場付近に行くと、あの惨劇の記憶が蘇ってくるので近づきたくないそうです。沢山の遺体を収容所まで運んだそうです。現在、明石公園にはその犠牲者を祀る碑が建てられています。
戦時中は、ほとんどの家の大きな家財道具は疎開させ、衣料品とか食料品は家の下に防空壕を掘って入れていました。魚秀(三好さん)の家の下には、炭を貯蔵する六畳と八畳の倉庫(防空壕)があったそうです。商売は早くから企業整備で個人で商売が出来なくなり、政府から配給制度で物が配られていました。かまぼこ屋はかまぼこ屋同士、一つにまとめられ有限会社という一つの企業が作られました。石井さんのおじいさんが初代の代表者をされたそうです。
7月7日 ついに明石の市街地が標的に!
次いで川崎航空機明石工場から明石の市街地に標的は移され、明石市街地の空襲は七月七日午前0時十五分から一時三十分まで、約二分間隔で焼夷弾(しょういだん)が1045.2トンが投下されました。360人が死亡、行方不明7人、重軽傷者190人、約九千戸が全壊全焼した大きなものでした。爆弾は落ちると爆発して標的を破壊しますが、焼夷弾は対象物を燃やす爆弾でした。
まずは照明弾が落とされました。飛行機から見たら明石のまちが全て丸見えになっていたはずです。地上では新聞が読めるぐらいの明るさでした。そして的確に焼夷弾を落としてきたのです。今だったら大変な問題になりますが、一般市民が住んでいる市街地を標的とし、焼夷弾は一般民家を焼き尽くし、一般市民を焼き殺す為に落とされた爆弾でした。
まずは照明弾が落とされました。飛行機から見たら明石のまちが全て丸見えになっていたはずです。地上では新聞が読めるぐらいの明るさでした。そして的確に焼夷弾を落としてきたのです。今だったら大変な問題になりますが、一般市民が住んでいる市街地を標的とし、焼夷弾は一般民家を焼き尽くし、一般市民を焼き殺す為に落とされた爆弾でした。
七月六日の深夜、警報のサイレンが鳴り響き、命がけで避難所のある明石公園の憲兵隊前の防空壕へ避難し、避難した人々は助かりました。駅前通りから西に落とされ、すべて焼き尽くされました。石井さんのお店にも四発落とされたそうです。浜に逃げた人は、投下地点から風下だったため目がはれるなど、大変な目にあったそうです。川崎さんは、六日は江井ヶ島のお婆さんの実家で過ごしており、深夜の空爆で東の空が真っ赤に染まっていました。明くる日、勤務先の神戸製鋼から会社のトラックで明石付近まで送ってもらうと一面が焼け野原になっていました。茫然と焼け跡にたたずんでいました。浜の方は空爆の影響は無く、その当時あった旅館等は無事に残っていました。
復興への歩み
その次の日から焼け跡の片づけに追われ大変でした。焼け跡からかき集めた廃材でトタン屋根のバラックを自分たちの手で建てました。
石井さんの所では鉄だった風呂釜は消失せずに残っていたので、家とお風呂場までトロ箱を使った足場をつくり、その間を走ってお風呂に入っていたそうです。またお風呂場の屋根もなく、奇麗なお月さんが見えたのが、子ども心に面白かったそうです。お父さんの友達が、自宅にお風呂があるにもかかわらず、度々お月さんの見えるお風呂に入ろかとよく遊びに来られていたそうです。
石井さんのお家では戦中、戦争がひどくなってくると、道具(陶器塗物)が好きだった先代が道具をたまたま疎開させていました。戦後その道具で何か出来ないかと、飲食店の端くれみたいなことから商売が始まりました。内容は三円の粕汁と五円の茶碗蒸しを売ったそうです。茶碗蒸しは、卵が少ない時代でしたので、工夫して片栗粉を混ぜて作っていました。それがまたよく売れたそうです。
その後、明石の中心市街地には災難が二度起こりました。終戦から四年後、バラックでの商売が起動に乗ってきたとき、大火事が発生し魚の棚を含む明石の駅前の大半が消失した「明石大火」が起こりました。その後、大水害もあったそうです。 このような歴史を歩みながら現在の明石があり、現在の私たちの幸せな生活があることを改めて感謝をするばかりです。
● 編 集 後 記 ●
魚の棚の歴史をこれまでに何度か紙面でご紹介させていただきましたが、その度、再認識するのは「先人の方々のご苦労やご努力の上に商店街は成り立っていて、現在、商売をしている私たちはその恩恵を日々受けている」ということです。
今、明石駅前では再開発工事が進行中で魚の棚周辺は大きな変化の時期を迎えようとしていますが、一時代前のよく「激動の」と称される昭和もまた魚の棚にとって、文字通り激しい変化の波に見舞われた時代でした。大火事や水害、公設市場の完成、ダイエーの進出等。そして、今回、取り上げさせていただいた「明石の空襲」もまた魚の棚にとっても忘れてはならない、歴史の一コマと言えるでしょう。戦争を体験された方々に直接お話を伺う機会がある今、是非、貴重なお話を記事にしたいと思いました。
ご協力いただきました皆様本当にありがとうございました。
ミニコミ紙編集委員長 松谷佳邦
うおんたなの「タイちぃとタコちぃ」は、
おっとりやさしいタイちぃと、
わがままで負けずぎらいのタコちぃの
コンビキャラクターです。
そんなせいかくが正反対のふたりですが、
実はすごくなかよし。
いつもいっしょに、うおんたな商店街をもり上げています。
これからも僕たちをよろしくね!