魚の棚について

「うおんたな」と呼ばれる明石・魚の棚商店街は、約400年前に明石城の築城とともに誕生したと伝えられており、宮本武蔵の城下町の町割りの設計により造られたと言われる古い歴史を持つ市場。

全長350mのアーケードに明石特産の海の幸や練り製品、海産物の乾物などを扱う商店を中心に約110店の店舗が建ち並んでいます。

瀬戸内海・明石海峡に面し、東に大阪湾、西には播磨灘があり、この海域は流れの速い潮流と複雑な地形に形成された多くの産卵場、育成場があります。自然環境にも恵まれ古くから漁業が盛んに行われ気候が温暖で潮流の変化が大きい瀬戸内海では、小型船による底びき網漁業、船びき網漁業、刺網漁業、一本釣り漁業の他、網、つぼ、かごなど多種多様な沿岸漁業が行われ、さらに、ノリ、ワカメなどの養殖、そして、タイやヒラメ、クルマエビなどの栽培漁業も行われています。

町の始まり

魚の棚商店街の場所で商売が始まったのは約400年前のことです。初代城主・小笠原忠真(忠政)が信濃(長野県)から明石へ移封されたのが元和3年(1617年)、その翌年から明石城築城を開始し、城下町の線引きを担当したのが宮本武蔵と伝えられています。町の東部を商人と職人の地区、中央部を東魚町、西魚町など商業と港湾の地区、西部は樽屋町、材木町とその海岸部には回船業者や船大工などと漁民が住む地区という風に、整然と町割りがされました。その東魚町、西魚町にあたるのが現在の魚の棚商店街の原型です。城に近い一等地に魚町が置かれていたことから、当時より明石では魚が重視されていたことがわかります。

「魚の棚」の由来

「魚の棚」の名称は魚商人が大きな板を軒先にずらりと並べ、鮮度を保つために並べた魚に水を流していた様子からきています。江戸時代、沿岸沿いの城下町にはどこでも「魚の棚」という通称をもつ町があったようですが、今も名の残る「魚の棚」と言えば、全国的にも知られる明石の魚の棚商店街です。地元では昔から「うおんたな」と発音します。

最初の商品

町ができた当時の東魚町では、鮮魚と練り製品の店が集められていました。また、東魚町よりやや西に位置する西魚町には塩干ものの問屋と小売りが並んでいました。元文年間(1736~41)には東・西魚町で鮮魚店が56軒、塩干物店が50軒あったそうです。明石海峡や播磨灘の鮮魚、蒲鉾、ちくわ、天ぷら、干物といった商品が所狭しと並べられていたことでしょう。

2005年にアーケードがリニューアル

●アーケード部分全域
2005年9月から工事にかかっていた魚の棚商店街のアーケードが完成し、記念セレモニーが開催されました。また、一般公募から選ばれたデザインで作製したステンドガラスも設置されました。 白いドーム型の屋根も新たに葺き替え、白く新しいアーケードに。各所アイキャッチなども新しくなりました。

●東ゲート
海から跳ね上がる鯛が看板から飛び出しそうな、勢いのあるメインゲート。

●西ゲート
グネグネと商店街を歩く、明石の元気なたこをイメージした新しい看板が登場。

●東南ゲート
東ゲートの南の入口が、新たに名づけた「弁天通」のゲート。かわいい弁財天のイラストが目印。

●弁天通りアーケード
ドーム型の屋根の下に、弁天通の象徴として赤い鳥居が。

●北ゲート
たこと鯛のイラストが入った現在の看板を生かし、赤の塗装でより鮮やかな印象に。

魚の棚の弁天様

 魚の棚商店街の東西の通り沿い「たこ磯」と「魚利」の間に小さな通路があるのをご存知でしょうか。
昨年末のアーケード新装の際、弁天会館あたりから南へ続く通路を「魚の棚べんてん通り」と名付け、柱を朱塗りにしたり、鳥居を掲げたりと存在感が増しているので、改めて気づかれた方も多いかもしれませんね。
通路を奥へ入って行くと「厳島辨財天社」があります。弁天さんと言えば知恵、財福、戦勝、子孫繁栄のほか、音楽、技芸、弁舌など芸能の神として知られています。商売繁盛を願って商店街の一角に祀られたものと思われますが、空襲等で資料が失われ、いつからここにあるのかは不明です。現在の社殿と、和室などを備えた弁天会館は昭和30年に建てられたもので、かつては貸し教室として頻繁に利用されたり、時には結婚式の会場にもなったそうです。

東西の通り沿いにある弁財天社の入り口。
見かけたらぜひお参りを!願いごとがかなうかも‥‥

1回50円のおみくじあり。箱にお金を入れて、引いた番号の紙を引き出しから自分で取ってね

通路奥、弁財天が祀られているほこら
大正から昭和初期にかけて商店街に敷かれていた、古い石畳が残る数少ない場所でもある

厳島弁財天社例祭毎年7月の例祭は、長らく町内行事として内々に行われてきましたが、今年はお買い物に来られる皆さんにも広く親しんでいただこうと、お守りの無料配布を予定しています。